博多祇園山笠ウォーキング その3
前回(博多祇園山笠ウォーキング その2)の続き
本日からいよいよ舁山が動き始めました。クライマックスの追い山に向けて、博多の町は祭り一色に染まります。
以下のような色分けで立ち寄った場所を表示します。
■飾り山笠|■舁き山笠|■その他のポイント
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福岡 ヤフオク!ドームを後にし、七番山笠がある博多区の千代を目指します。何度も言いますが、福岡ドームの飾り山笠がなければ、かなり楽なウォーキングになったんですけどね^^;
■~七番山笠 千代流
福岡市の桜の名所、西公園の入り口 [地図]です。ここは何度も来たことがあるので素通りしました。
博多港に面した公園のかもめ広場 [地図]です。
かもめ広場内の巨大なスクリューのオブジェ。
かもめ広場ではコンビニのおにぎりで昼食をとりました。
前々から気にはなっていたが、利用したことがなかった無料開放の天空の足湯 [地図]。
疲れた足を癒してもらおうと楽しみにしていたのだが、今年の5月31日をもって閉鎖されたそうです…ORZ
最近ではラーメンの値上がりがニュースにまでなった長浜ラーメンの有名店「元祖長浜屋」 [地図]。
正直な話、ここのラーメンはあまり好きじゃないです^^;
福岡市鮮魚市場 [地図]。
市場会館内の食堂街ではおいしいお魚が食べれますよ^^
福岡競艇場 [地図]。
福岡市民会館 [地図]。
那の津大橋から博多ポートタワー [地図]を眺めます。私は博多ポートタワーとは呼ばずに元祖福岡タワーと勝手に呼んでいます。
千鳥橋 [地図]までやって来ました。七番山笠まではもうすぐです!
■七番山笠 千代流 [地図]
【標題】英傑傾天下尚潔
群雄割拠の戦国時代に傾奇者と呼ばれた前田慶次郎利益は、前田本家ながら、利家に抗して家を出奔、京での浪人の後に、親交のある直江兼続との縁で上杉景勝に仕官する。「大ふへんもの」の旗を立て、皆朱の槍を振るい、関ヶ原の役、長谷堂城の合戦に大功をたてるも、西軍の敗戦の為、上杉家は三十万石に減封される。その時慶次郎はあまた大名より高禄で誘われるが「この戦いで漢は景勝ただ一人」と小禄で上杉に残りました。
■七番山笠 千代流 [地図]
▲表
【標題】武魁神剣誉
祇園の祭神、素戔嗚尊が高天原を追われて出雲国の肥河の上流にある鳥髪という土地に降りてきました。そこで八俣の大蛇にしいたげられている足名椎、妻の手名椎とその娘、櫛名田比売の為に八俣の大蛇を退治します。その際、大蛇の尾から出てきた剣が三種の神器の一つ、草薙の剣です。
▲見送り
【標題】藤花三巴誇
秀吉の軍師、黒田官兵衛は織田信長に諜叛を企てた同じキリシタンの荒木村重を説得する為に有岡城へ乗り込むが説得は成らず、土牢に閉じ込められてしまいます。信義を守って信長を裏切らない官兵衛。忠義を持って有岡城に潜入する栗山善助と母里太兵衛らの小飼の家臣、友情を持って嫡子長政の命を守った竹中半兵衛。一年近くも日も差さない泥腕、体を動かすこともままならず半死半生の身になりながらも、官兵衛の心の支えとなったのが楼の外に見える一房の藤の花でした。藤が新芽を吹き出し紫の花を盛んとする姿に官兵衛は生き抜く力を得たのです。
■濡衣塚 [地図]
【濡衣塚】無実の罪を負わされるという意味の「濡れ衣」の語源で有名な碑。8世紀前半に京都から博多に赴任した筑前守護職・佐野近世の後妻による「釣衣を盗んだ」という噂で殺された先妻の娘・春姫が亡霊になって無実を訴えたという事件にまつわる逸話が残っています。
■一番山笠 恵比須流 [地図]
【標題】見義不為無勇也
渡辺綱は平安中期の武士で摂津源氏の源頼光に仕えた人物です。頼光四天王の筆頭として剛勇で知られ、大江山の酒呑童子退治や京都の一条戻り橋の上で鬼の腕を名刀「髪切りの太刀」で切り落とした逸話は有名です。
■海元寺 [地図]
【海元寺】黒田光之公の宰臣、鎌田九朗兵衛の槍持ちだった源七が、上方のある辻堂から持ち帰った木造の閻魔の首を安置するために建てたことに始まります。海元寺には観音堂・閻魔堂という2つのお堂があり、観音堂には観音様達が、閻魔堂には閻魔様を始め地獄の住人達が祀られており、浄土と地獄の縮図を表しています。 普段は格子越しにしか閻魔堂・観音堂を覗く事ができませんが、毎年、初閻魔(1月16日)と閻魔大祭(8月16日)にこのお堂が開帳されます。
■葛城地蔵尊 [地図]
【葛城地蔵尊】延喜年中(901~923年)に地中から梵字が刻まれた石が発見されて以来、地蔵尊として祀られるようになりました。その後も博多で流行した疫病を治めたり、B29の空襲の戦火を免れたのも地蔵尊の神通力であると語り継がれています。また、出征した町の青年30名も一人残らず無事帰還し、交通事故で亡くなった人もこの町にはいないそうで、「生き残り地蔵」ともいわれています。
■四番山笠 東流 [地図]
▲表
【標題】天下取戦陣之誉
時は戦国時代の乱世の世、場面は山﨑の合戦天正10年(1582年)を舞台に描いています。時の天下人、織田信長が重臣であった明智光秀の諜反を受け、その生涯を本能寺において閉じてしまいます。主君の死去の知らせを受けた羽柴秀吉は、高松城水攻めの最中、毛利輝元と講話を果たした後、京都に急ぎ軍を返した中国大返しを実行し、主君の仇となった光秀を山﨑において討ち果たします。
▲見送り
【標題】天孫降臨高天原
天照大神の弟、素戔嗚尊の神をも恐れぬ愚業を重ねる姿に怒り、天照大神は、天の岩戸に身を隠します。光を失った世界に光を取り戻すため思兼神などが中心となり、天鈿女命が舞う舞台を用意しています。外での何やら楽しげな祭りごとに誘われて、その姿を岩戸より現したことで再び世界に光が差し込むという有名な場面です。
■四番山笠 東流 [地図]
山小屋はなく、呉服町ビジネスセンターの1階にありました。飾りのみが展示されています。
【標題】天女降臨払暗雲
弁財天は、仏神の一つで大黒天や毘沙門天と同様元々は、インドのヒンドゥー教の神様です。弁財天信仰は、奈良時代に始まり唐からもたらされた金光明最勝王経には、仏教の御法神の一つとして説かれています。平安時代に本来の楽器を持った水の女神という姿が伝えられ、琵琶を弾く美貌と艶やかな姿の女神像が一般化したようです。この女神は、人の穢れを払い、富貫・名誉・福寿・愛嬌・縁結び、それに子孫を恵む神であると言われる一方、学問と技芸、雄弁と知恵の保護神であるとも言われています。
■二番山笠 土井流 [地図]
【標題】忠誠真愛武士魂
武士の義に生きた幕末の名君と称された「松平容保」。会津松平藩九代目の藩主。文久2年幕末京都守護職として、京都の治安と公武合体に力を尽くし、時の孝明天皇の厚い信頼を得る。その後、倒幕派は形勢を逆転、戊辰戦争へ突入。会津落城後は妙国寺に謹慎、のち和歌山藩に移され明治5年に赦免。後に日光東照宮宮司を務めた。文久3年(1863年)孝明天皇からご宸翰(天皇直筆の手紙)と御製(天皇の和歌)を下賜された。それを入れた小さな竹筒を首から提げて終生肌身離さず、そして中身を誰にも見せなかった。朝敵の藩主として波乱にとんだ人生を閉じたが、忠誠心厚く誠実一途を貫いた人物であった。後に松平容保に贈られた神号は貫いた人生と同じ「忠誠霊神」であった。
■十七番山笠 博多リバレイン [地図]
▲表
【標題】智勇誉軍師
黒田官兵衛は、豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中半兵衛と双璧をなす秀吉の参謀であり、後世に「両兵衛」「二兵衛」と称された。秀吉の命で、1587年から始まった博多の復興事業「太閤町割」にも関わっている。長男は福岡藩初代藩主である黒田長政。
▲見送り
【標題】祭博多之賑
長谷川法世原作の「博多っ子純情」の登場人物で博多の3大祭である「博多どんたく」、「博多祇園山笠」、「放生会」を題材にしています。原作は、博多の町を舞台とし、主人公の郷六平と同級生たちの青春群像に人情味あふれる古き良き時代の博多の風物を絡ませた作品である。1978年には松竹配給で映画化され、1980年には第26回小学館漫画賞を受賞。
その4に続く
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