博多祇園山笠ウォーキング その4

前回(博多祇園山笠ウォーキング その3)の続き

今回で博多祇園山笠ウォーキングの報告は終わりです。山笠のクライマックス「追い山」に向かって博多の街も盛り上がってきています。明日からの3連休は山笠を観に博多の街に出かけてみませんか

以下のような色分けで立ち寄った場所を表示します。

■飾り山笠■舁き山笠■その他のポイント

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没写真(Facebook)

    


■博多川端商店街 [地図]

約400メートルのアーケードに約125店舗が連なる博多で最も歴史のある商店街。博多人形や山笠グッズなど博多ならではのお土産を見つけることができます。ここには三番山笠と八番山笠が展示されてました。


■三番山笠 大黒流 [地図]

【標題】威風堂々忠儀漢

母里太兵衛は黒田如水、長政父子に仕え槍術に優れた武将として活躍した。太兵衛は酒豪で知られ、福島正則に進められた大盃の酒を見事飲みほし、正則から大身槍 名物「日本号」を手に入れたことは有名である。このため「日本号」を別名「呑み取りの槍」と称する。このエピソードをモチーフにしたのが民謡「黒田節」である。


■鏡天満宮 [地図]

三番山笠を見た後は、八番山笠を見ずにいったん博多川端商店街を離れ、こちらにやって来ました。天満宮そばに建つ博多リバレインとの対比がなんかおもしろかったです^^

【鏡天満宮】901年諌言によって大宰府の権師に左遷された菅原道真が博多に上陸して休憩をとっている時、「海路の疲れにおやつれ給ひし御相顔を鏡に映して御覧になった」と伝えられる鏡をお祀りする神社です。鳥居の脇にある「渡唐口」の碑は、この辺りが遣唐使が大陸へ向かう港口があった証です。


■福岡市文学館(赤煉瓦文化館) [地図]

何千回も通り過ぎたことはあるが、一度も中に入ったことがなかった福岡市文学館。「気にはなっているがなかなか立ち寄らない場所にも行ってみよう!」という今回のウォーキングの裏テーマに従って立ち寄ってみることにしました。

【福岡市文学館】建築家辰野金吾工学博士と片岡安工学士が設計を担当。1909年2月に日本生命保険株式会社九州支店として竣工。ドームや小塔、屋根窓を配した銅板葺きの屋根や赤煉瓦と白い花崗岩の外壁は、19世紀末の英国様式を応用したものです。1969年3月に国の重要文化財に指定され、2002年5月に福岡市文学館として活用されています。


一部を除き館内撮影OK。ここは1階展示室です。


2階廊下付近。3階へのらせん階段は使用禁止。2階にある会議室は使用中の為、見学できませんでした。


■水鏡天満宮 [地図]

こちらも何千回と通り過ぎたことはあるが一度も立ち寄ったことはありませんでした。

【水鏡天満宮】大宰府に左遷された菅原道真が、今泉を流れる川を水鏡にして映った自身のやつれた姿を見て、嘆き悲しんだという逸話から社殿を建て祀るようになったのが起源です。当初は今泉にあったものを、江戸時代初期に初代福岡藩主・黒田長政が、福岡城の鬼門にあたる現在地に移築しました。「天神」とは菅原道真のことであり、このときの移転が天神の地名の由来です。



■旧福岡県公会堂貴賓館 [地図]

【旧福岡県公会堂貴賓館】1910年に第13回九州沖縄八県連合共進会の来賓接待所を兼ねて建設。旧公会堂のうち貴賓館は、数少ない明治時代のフレンチ・ルネッサンスを基調とする木造公共建造物として貴重なため、国の重要文化財に指定されています。


■福博であい橋 [地図]

那珂川をまたいで博多区中洲と中央区西中洲とを結ぶ橋です。西の城下町「福岡」と、東の商人の町「博多」が出会う場所として名付けられました。


■三人舞妓 [地図]

【三人舞妓】福博であい橋のたもとに建つ3人の舞妓を模した銅像。1925年、博多人形師・小島与一が、パリ万国現代装飾美術工芸博覧会に出品し、銀賞受賞に輝いた原型人形をもとに3倍に拡大して銅像化したもの。


■五番山笠 中州流 [地図]

博多祇園山笠 中洲流トートバック


▲表

【標題】合戦石垣原

黒田如水は軍師として秀吉に仕え、その功績により豊前豊後六郡を与えられ中津城を築城しました。石垣原の合戦は1600年9月、元豊後の国主だった大友義統が旧領回復を目ざして戦います。石垣原は、大友義統が本陣をおいた「立石」と黒田如水の布陣した「実相寺山」との間に広がるなだらかな傾斜地で戦いを繰り広げられました。


▲見送り

【標題】関ヶ原合戦

1600年9月、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍によって美濃国関ヶ原で行われた「天下分け目の戦い」。1598年、豊臣秀吉が死ぬと石田三成は五大老・五奉行の制度を設けて家康に対抗させようとした。益々対立が深まり、かねてより挙兵の機を伺っていた三成はこの機をとらえ軍を発した。東西両軍が関ヶ原にて激突。黒田長政の攻略と黒田軍の活躍により吉川・小早川の裏切り、島左近、石田三成を追い詰めた。


■五番山笠 中州流 [地図]

山小屋はなく、中洲Uビルの1階に設置されていました。

【標題】武勇長政公

1568年12月3日、黒田孝高の嫡男として播磨国姫路城に生まれる。幼名松寿丸。
1592年秀吉の文禄慶長の役に従軍。
1598年石田三成と対立。
1600年家康方に付き東軍武将として関ヶ原にて戦う。西軍の小早川や吉川等を交渉し寝返らせ家康から一番の功労者として筑前名島に52万3千石を与えられる。
1603年従四位下筑前の守に叙任される。


■子供山笠

再び、博多川端商店街に向かう途中、博多小学校の児童らによる子供山笠に出くわしました。


沿道から水を浴びせられる中、「オイサ、オイサ」と元気いっぱいの掛け声が響いていました。


川端ぜんざい広場 [地図]

上川端商店街の広場で、週末に限り名物のぜんざいを味わうことができます(但し山笠期間中は毎日開いています)。広場内には飾り山が常時展示してあり、私が訪問したときは昨年の八番山笠が飾られていました。


▲表

【標題】八犬伝孝信之絆


▲見送り

【標題】瑞祥七福神


■八番山笠 上川端通 [地図]

上川端通の飾り山笠は「走る飾り山笠」と呼ばれ、飾り山で唯一、追い山ならしと追い山でコースを走ります。


▲表

【標題】軍師官兵衛

織田信長が褒め称え、豊臣秀吉が頼りにし、徳川家康が恐れた戦国最強の軍師・黒田官兵衛。如水と号して水の如くしなやかに生きあくまで信義を貫き通したその姿に敵さえも信頼を抱いたという。


▲見送り

【標題】正木宗七博多人形献

黒田官兵衛、長政と共に播州から福岡城の鬼瓦の瓦師として博多入りした正木宗七は、瓦町に住み瓦の粘土で人形を作って長政に献上したのが博多人形のはじめである。その後中の子家、白水家と共に博多人形の祖を築き博多の産物を生み出した。聖福寺の仙崖和尚とは最も親好厚く宗七は陶製の仙崖和尚を作った。博多祇園山笠の発祥の地でもある承天寺の塔頭である人形堂祥勝院に安置される。


■五足の靴文学碑 [地図]

【五足の靴文学碑】与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野万里の5人が1907年7月末から約1ヶ月間、九州西部を中心に旅して、「東京二六新聞」へ紀行文「五足の靴」を寄稿しました。この碑は5人が九州での1日目の夜を博多の川丈旅館で過ごしたことを記念して建てられました。


■川端飢人地蔵尊 [地図]

【川端飢人地蔵尊】1732年の享保の大飢饉では、博多の町で人口の3分の1ともいわれる約6,000人の犠牲者が出ました。この死者の霊を弔うために地蔵尊が祀られ、毎年8月23日~24日に施餓鬼供養が行われています。


■十三番山笠 キャナルシティ [地図]

各流で作られる手拭いが展示されるスペースの前では、コンサートが開かれていました。


▲表

【標題】勧進帳

兄頼朝と不仲となり追われる身となった義経は、弁慶らわずかな家来とともに、平泉へと向かいます。一行は山伏に変装して安宅の関を通過しようとします。一行を怪しんだ富樫左衞門は「本物の山伏なら勧進帳を持っているはず。この場で読んでみろ」と命じます。そこで弁慶は、まっさらな巻物を勧進帳と見せかけて朗々と読み上げます。いったんは本物の山伏一行だと信じた富樫ですが、強力に変装していた義経を番卒が見咎めます。弁慶は持っていた杖で義経を激しく叩きます。それをみた富樫は、弁慶の痛切な思いに共感して関所を通すのでした。歌舞伎十八番の一つで、今年2月急逝した十二代目市川団十郎丈を偲んで「勧進帳」が取り上げられました。


▲見送り

【標題】西遊記

石から生まれた孫悟空は、天界で大暴れした為に罰として大きな山の下敷きにされていました。それから500年は過ぎたある時、お釈迦様の「いつか現れる三蔵法師を助け、共に天竺へありがたいお経を取りに行くならば、罪を許す」というお言葉に、孫悟空は、猪八戒・沙悟浄らと三蔵法師を守りながら、多くの苦労を乗越えついに天竺に辿りつきました。


■櫛田神社 [地図]

博多祇園山笠の聖地、櫛田神社です。

ローカルネタで申し訳ありませんが、ここに来るといつも「山笠のあるけん、博多たい!」のフレーズで有名な伝統銘菓博多山笠のCM [YouTube]を思い出します。

【櫛田神社】博多の総鎮守として商売繁盛、不老長寿の守り神として信仰をあつめており、地元の人から「お櫛田さん」と称され親しまれています。毎年7月1日から15日まで行われる博多祇園山笠は、櫛田神社右殿の素盞嗚大神に対する奉納の行事として行なわれているものです。そのフィナーレとなる15日早朝の「追い山笠」は、この櫛田入りからスタートします。


清道付近。桟敷席の設置も完了していました。


多くの参拝客で賑わっていました。こちらでも行橋別府100kmウォークの抽選当選を祈願しました。



■番外 櫛田神社 [地図]

櫛田神社境内に奉納される飾り山は一年中見ることができます。


▲表

【標題】剛弓一箭源為朝

1156年、京都では崇徳上皇と後白河天皇の勢力争い(保元の乱)が起こり、上皇方に源為義・為朝、天皇方に源義朝・平清盛と分かれて衝突が起こりました。この飾り山笠は弓の名手の源為朝が上皇方として戦局不利のなか勇猛果敢に戦う一場面であります。


▲見送り

【標題】神武東征熊野譚

神武天皇(神倭伊波礼琵古命)が日本の国内を平定し、国を治めて初代天皇として即位する迄の「神武東征」の一場面です。


■博多町家ふるさと館 [地図]

【博多町家ふるさと館】明治中期に博多織の織元が建てた町家を1995年に移築復元した博多の観光施設。博多の祭りや暮らしの解説展示コーナー、博多織の職人による伝統工芸の実演コーナーなどがあり、博多の伝統文化をわかりやすく紹介している。おみやげ処もあり、多くの観光客で賑わう。


■六番山笠 西流 [地図]

【標題】蘭陵王

南北朝時代末期、中国では北斉、北周、陳、突厥、後梁、の間で激しい戦いが繰り広げられていました。西暦564年北周の大群が北斉の洛陽を攻囲した際、北斉皇帝・武成帝の命をうけた蘭陵王は、わずか5百騎を率いて20万の北周軍と勇猛果敢に戦い、金?城を解放して国を危機から救いました。蘭陵王は、その優しい容貌のため、味方兵士の士気が上がらず、また敵に侮られるのを恐れて、出陣に際しては必ず猛々しい仮面をかぶったと伝えられています。


■東長寺 [地図]

追い山ならし、追い山の日になると、東長寺の前を走る大博通りのセンターライン部分に清道旗が立てられます。東長寺の中は以前JR九州ウォーキングで見学したのでパスしました。

【東長寺】弘法大師・空海が806年に日本で最初に開いた真言密教の寺。福岡藩主・黒田家の菩提寺でもある。国の重要文化財の木造千手観音像、市文化財の六角堂がある他、大仏殿にある日本最大の木造座像「福岡大仏」でも有名。2011年5月に高さ約26メートル、総木造の五重塔が完成しました。


■承天寺 [地図]

こちらも、追い山ならし、追い山の日になると、寺の前に清道旗が立てられます。

【承天寺】宋出身で貿易商の謝国明が1242年に建立し、宋から帰国した聖一国師が開山した禅宗寺院。国師が大陸から持ち帰った製粉技術を記す設計図により、うどん、そば、饅頭などの粉物文化が広まった。博多がうどん発祥の地と呼ばれるのはこのことによる。


博多山笠発祥之地の碑です。1241年、聖一国師が博多の町中で流行していた疫病を退散するため、町人に担がせた施餓鬼棚に乗って祈祷水をまき博多の街を救ったと言われており、これが博多祇園山笠の起源とされています。


博多文化発祥の地を物語る3つの石碑です。左から「饂飩蕎麦発祥之碑」「饅頭発祥之碑」「満田彌三右衛門之碑」です。


洗濤庭です。中には入れませんでした。


■JR博多駅 [地図]

17時頃、JR博多駅に到着。約25kmのコースだったので距離的にはあまりたいしたことないのですが、この日はとても暑くて、熱中症になるかと思いました^^;

皆さんもこれからの季節、ウォーキングするときはお体には気を付けてください。


       

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