フランシスコ・ザビエルが歩いた道をウォーキング!!

2013年3月23日()は、JR暘谷駅で開催されたJR九州ウォーキングに参加してきました。

平成25年4月10日までは青春18きっぷ が使えるので、近場のコースでなくなるべく遠方のコースに参加しようと思っています。

ウェア&シューズ70%以上OFF

    


JR九州ウォーキング
暘谷駅:フランシスコ・ザビエル四十五歳の豊後旅~ザビエルの足跡を訪ねて~
(コース距離:約10km)
コース詳細
当日マップ


■JR暘谷駅(スタート地点)

9時50分頃到着。長い時間鈍行列車に揺られて来たので既に疲れてしまいましたw


シャトルバスのりばに向かうとちょうどバスが待っていたので、スタート受付を済ませ慌てて乗り込みましたズサーc⌒っ゚Д゚)っ



■ウォーキングスタート地点

シャトルバスはカーブの多い山道を登り、15分ほどでウォーキングスタート地点に到着しました。


■西鹿鳴越道(ザビエルの道)

下り坂だったのでデブ汗をかかずに済んだのですが、前日の雨のせいで道はぬかるんで滑りやすくなっており、慎重に足元を確認しながら下山したためかなり時間がかかってしまいました。

【西鹿鳴越道(ザビエルの道)】豊前から豊後に通じる街道は、江戸時代以前から、鹿鳴越峠を越えるのが通例だった。鹿鳴越峠は、立石から中山香、東山香を経て長野に通じる東鹿鳴越道と宇佐から安心院を通って山田につながる西鹿鳴越道の2つの峠道があった。1551年、フランシスコ・ザビエルは、山口から険しい山道を経て、大友宗麟の待つ豊後府内に向かう際に、ここを通り日出の港に来航したポルトガル船に乗り府内に向かったとされる。





▲西鹿鳴越道からの眺望

晴れた日は大分市まで一望できるスポットとのことでしたが、あいにくの曇り空でしかも霞がかかっていた為、別府湾と高崎山がぼんやりと見える程度でした。


▲一目城の石切り場

【一目城の石切り場】江戸時代から昭和初期にかけて営まれた石切り場で、良質な安山岩が採掘された。かつてこのあたりから日出城(暘谷城)を見渡すことができたことから、「一目城」の名がついた。



■山田湧水

気のせいでしょうか、ちょっと甘い味がしました。

【山田湧水】鹿鳴越山系の良質な水源に恵まれた日出町を代表する湧水です。古来から人々の生活を支えてきた水源で、今も生活用水や農業用水として利用されています。新鮮な湧水を求めて、町内外から多くの水汲み客が訪れます。



■日出殉教公園

こちらでは冷たいお茶と飴を振舞ってもらいました。

【日出殉教公園】平成19年10月、加賀山半左衛門親子が福者に列せられたことを記念して、この成敗場跡地に隣接して「日出殉教公園」がカトリック大分教区の手により建設された。また同年10月7日には、異例の松屋寺・カトリック大分教区による宗派を超えた合同慰霊祭も行われた。



▲日出藩成敗場跡地

【日出藩成敗場跡地】日出藩の罪人処刑場跡地で供養塔が建てられている。11代藩主木下俊懋が松屋寺住職大蓮和尚に命じて寛政11年に建立した。また、元和10年、家老職であったキリシタンの加賀山半左衛門が初代藩主木下延俊より棄教を命ぜられましたが、それに従わずこの地にて殉教した。その息子ディエゴもこの地で殉教している。



■~城下海岸遊歩道

いろいろな花々が満開で、春になったことを実感しながら歩きました。







■城下海岸遊歩道


▲ザビエル浜出の地

こちらでは、ガイドさんからザビエル浜出の地の説明を受け、飴を振舞っていただきました。

【ザビエル浜出の地】1551年9月頃、フランシスコ・ザビエルは山口から大友宗麟の招きで、経塚山の西鹿鳴越を通り、山田からこの浜に着き、府内を望むこの海岸から小船でポルトガル船に乗り移り、宗麟に会いに行ったとされています。


▲城下かれい供養塔

一度食べてみたいです(^q^)

【城下かれい】大分県は日出町にあった日出城址(暘谷城址)の南側、別府湾の城下海岸の真水の湧く海底を中心に広がる海に生息するマコガレイのこと。


■城下公園

▲人柱祠

【人柱祠】昭和35年、城下海岸の遊歩道を工事中、木棺と老武士とみられる遺体の人骨が発見され、調査の結果、日出城(暘谷城)築城当時の人柱であろうと推定されました。日出城の築城工事は、西南部の地盤が弱く、方位からも裏鬼門にあたることより、人柱を立てたのではないかと考えられている。


▲暘谷稲荷


▲田吹繁子歌碑

【田吹繁子歌碑】田吹繁子は、昭和13年に、東京で短歌雑誌「八雲」を創刊し、昭和49年から日出町中央公民館で短歌教室を発足。長期間に渡って講師を務め、町内の歌人育成に尽力した。そして、短歌教室の受講生により、田吹女史の短歌碑が暘谷城趾に建立された。


▲空母海鷹の碑

【空母海鷹の碑】航空母艦海鷹の元乗組員海鷹会によって昭和57年に平和を祈願して建てられました。


▲高浜虚子句碑

【高浜虚子句碑】「海中に真清水わきて魚育つ」の句碑は、虚子が大正9年日出を訪れて残した俳句の碑で、昭和27年建立された。また昭和57年虚子の娘の高木晴子の句碑も建立され親子碑として有名である。


▲小田先生殉職碑

【小田先生殉職碑】日出尋常高等学校に勤務をしていた小田三郎は、昭和20年7月、日直出勤をしていた時に空襲をうけ、登校していた児童を防空壕に避難させ、全員の安全を確認し、最後に自分が防空壕に入ろうとした際に銃弾をうけ防空壕の前で倒れました。


■日出城(暘谷城)趾

【日出城(暘谷城)趾】慶長7年に、日出藩初代藩主木下延俊が築城した日出城は、小藩の城とは思えないほどの規模と高い完成度を誇っていました。日出城は、別名「暘谷城」と呼ばれているが、その由来は、三代藩主であった木下俊長が中国の古書「淮南子」の一説にある「日は暘谷より出でて咸池に浴す」という言葉から引用して命名したといわれています。


▲日出城(暘谷城)の石垣

【日出城(暘谷城)の石垣】石垣の構築は細川忠興の家臣で築城の名手・穴生理右衛門の指揮によってなされたといわれています。彼の指揮により築かれた日出城の石垣は、「穴太積み」として呼び親しまれています。日出城の石垣は、築石に自然石や粗割石を用いた「野面積み」の技法で、「乱積み」と「布積み」の中間にあたる「布目崩し積み」により構築されました。


▲日出城(暘谷城)の天守閣跡

ここからは別府湾が一望できました。



▲日出城(暘谷城)の時鐘

【日出城(暘谷城)の時鐘】元禄8年、日出藩3代藩主木下俊長が鋳造させた釣り鐘です。江戸時代、1日に12回この鐘をついて時刻を知らせたといわれている。明治7年、外大手門より本丸の裏門櫓跡に移された。現在、日出小学校児童が毎朝8時に鐘をつき時を知らせている。日出町有形文化財。



▲鬼門櫓

【鬼門櫓】日出町有形文化財。17世紀初頭に建てられた城郭建築。鬼門とされる北東側の角を欠いた変則五角形の構造で、かつて城内本丸の北東隅にあった。その後、1921年に当時所有していた町内東仁王の個人方に移築され、町が2008年に寄贈を受けた。復元作業が完了し、2013年4月2日から一般公開される。


▲堀跡



■成清公園

▲瀧廉太郎像

【瀧廉太郎像】この銅像は日出町で永年短歌を指導していた歌人田吹繁子によって、弟子たちの歌碑建設への謝意として寄贈されました。銅像の裏面には次のような文が刻まれています。「偉大な作曲家瀧廉太郎は日出町出身 よって朝倉文夫作のこの像を町の皆様におくる」


▲帆足萬里像

【帆足萬里】江戸時代後期の儒学者・家老。安永7年日出藩の家老帆足通文の三男として生まれた。14歳で豊岡の儒学者脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研究に努めた。経済、物理、医学、天文などの各分野にも通じ、萬里の学識は西欧の諸学者に肩を並べるものがあった。天保3年、13代藩主木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも力を尽くした。帆足萬里の代表的著書に、「窮理通」「東潜夫論」などがある。また、三浦梅園・広瀬淡窓とともに、豊後の三賢と称される。


■二の丸館

日出城趾周辺の観光交流拠点として、平成22年4月に「二の丸館」が完成しました。「二の丸館」には、観光案内所や土産品の販売コーナー、トイレ、無料観光駐車場、軽食喫茶店等の設備が充実しており、ここを拠点にすることで、城趾周辺の散策をより一層、便利に楽しめます。


▲軽食・甘味処「やすらぎ」

コースマップのおすすめグルメ情報にこちらのだんご汁と親子丼が載っていたので注文したのですが、どちらも売り切れでした…orz

しかたなく、ぜんざいを注文しました。


▲裏門櫓

【裏門櫓】日出城本丸東の裏門を守るために築かれた櫓です。平成22年、二の丸館の隣に復元されました。裏門櫓は、江戸時代の日出城を知る上で貴重な文化財建造物です。現在はギャラリーとして活用されています。


■到道館

現在は復元工事中で中には入れませんでした。2015年3月の完成を目指しているそうです。

【致道館】安政5年、日出藩15代藩主木下俊程により創立された日出藩の藩校である。致道館は、明治4年の廃藩になるまで続いた。大分県に現存する唯一の藩校施設です。


■瀧家墓地(龍泉寺)

【瀧家墓地(龍泉寺)】「荒城の月」を作曲した日本の代表的な音楽家滝廉太郎。その祖先滝家は代々、日出藩の家老などの要職にあった家柄である。滝家の菩提寺は数多くの日出藩士が眠る龍泉寺であり、瀧家と瀧廉太郎の墓、記念碑が残っている。



▲瀧廉太郎の墓


▲記念碑


■松屋寺

拝観料300円を払いました。秘宝殿は撮影禁止。

【松屋寺】日出藩木下家の菩提寺。松屋寺はその前身を西明寺といい、日出藩初代藩主木下延俊が慶長12年に祖母の朝日の方と妻の加賀の法名から「康徳山松屋寺」と改称した。


▲日本一の大蘇鉄

【日本一の大蘇鉄】松屋寺本堂の前庭に植えられた、江戸時代より日本一と名高い大蘇鉄です。大友宗麟が外国貿易をしていたころ南方より取り寄せ、大友館で育てられたのち、慶長2年、府内城築城記念に府内城へ移植されたといわれています。明暦2年、府内城主日根野吉明が没すると、日出藩2代藩主木下俊治が城番を命じられ、翌3年交代帰城の際に日出藩内へ持ち帰り、松屋寺前庭に植えたといわれています。大正12年国の天然記念物に指定。


▲雪舟の庭

【雪舟の庭】雪舟が大分の万寿寺での修行時代に、松屋寺に滞在し、この庭を造成した。尚この庭は日本名園の一つに数えられている


▲日出藩主木下家の廟所

【日出藩主木下家の廟所】日出藩初代藩主木下延俊が、寛永年間創設したもので、松屋寺の裏山にあり、朝日の方(北政所の母で、延俊の祖母)を始め16代にわたる藩主並にその奥方子女等の墓が建てられ、その角碑輪塔が林立している様は実に壮観である。その中に殉死した家臣の墓も、夫々主君の墓の傍らに建てられている。

●木下家位牌堂



●木下家の墓



●朝日の方の墓


▲帆足萬里の墓

【帆足萬里の墓】墓は、14代藩主木下俊方の命により建立され、別府湾の風光を眺望するように日出城に向けて建てられている。 墓碑が欠けているのは、墓石をけずり持ち帰り、学業の向上を祈る人が多かったためという。


■JR暘谷駅(ゴール地点)

14時20分頃到着。福岡方面行きの電車を1時間以上待ち、帰路につく。


■今回の戦利品

スタート受付時に頂いた「地元産原木乾椎茸スライス小袋」です。実を言うと先着100名の「ザビエルバンダナ」の方が欲しかったかもw


       

この記事へのコメントはこちら

お気軽にコメントしてください
最初のコメントは管理人の承認待ちになります。
1度承認されると2回目以降のコメントはすぐにブログに反映されるようになります。
※ブラウザのJavaScript・Cookieを有効にしてください

管理人との内緒話はお問い合わせで受け付けています

内容に問題なければ、以下の「コメント送信」ボタンを押してください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)