勝手にウォーキング大会in長崎街道 飯塚宿

前回(飯塚ウォーク~長崎街道飯塚宿とお菓子の道巡り~)の続き

JR飯塚駅ウォーキングのメインイベントであるいいづか街道まつりも堪能し、ゴール地点へと向かっている途中、「長崎街道飯塚宿案内図」を発見してしまいました。こういうのを見つけてしまうと、うずうずして史跡めぐりをせずにはいられない体になってしまいました。もう完全に病気ですねw

ここでコースを外れて、「勝手にウォーキング大会in長崎街道 飯塚宿」を開催してきましたのでその様子を数少ない長崎街道好きにお届けしたいと思います(^o^)

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■勝手にウォーキング大会in長崎街道 飯塚宿

以下の資料を参考に次のようなコースを歩いてきました。

▲動くルート図

勝手にウォーキング大会in長崎街道 飯塚宿(ルートラボ)

※ルートの閲覧には、Microsoft Silverlight 3.0以上が必要となります。最新のMicrosoft Silverlightをダウンロード(無料)するには、こちらから

▲参考資料

●長崎街道飯塚宿案内図


■長崎街道 飯塚宿概要

長崎街道は、約228kmの小倉から長崎に至る街道です。長崎街道には25ヶ所の宿場があり、福岡藩内の「黒崎」「木屋瀬」「飯塚」「内野」「山家」「原田」は筑前六宿と呼ばれ大変賑わっていました。

江戸時代、飯塚宿は遠賀川と飯塚川が合流する水路交通の要所として、たくさんの商品を積み上げた川船が往来し、川岸では積荷を忙しく運ぶ商人たちで活気に溢れていました。しかし、1710年と1795年に大火に見舞われており、現在では宿場町の当時の面影はほとんど残されていません。そのため飯塚市文化連合会が史跡のポイントに簡潔な説明を刻んだ石碑を建てています。

■西構へ口跡 [地図]

長崎方面から飯塚宿の入口となるのが西構へ口です。

構へ口というのは宿場の入り口にあって、道の両端に道路に対して直角に石垣を築き、その上に瓦葺の土塀を設けたものです。一定の時刻になると門を閉鎖し、長崎奉行や大名の宿泊時などは厳重に警備し、臨時の城郭の役目をしていました。


西構へ口跡付近ではレトロな消火栓があちらこちらで見られました。


■大神宮跡 [地図]

1706年、この場所で「元大神」と刻まれた光る石が発見され、住民はこれを「大神石」と称して祠を建てて祭りました。1909年、曩祖八幡宮に合祠された後、その神社跡が荒れることを畏れて、井戸を掘り、湧き出る清水を利用して神に捧げる酒造りを始めました。


■東町商店街 [地図]

飯塚宿の旧長崎街道は現在商店街アーケードに変貌しています。その入口が東町商店街です。


東町商店街内には、当時の様子を描いた壁画があり、小倉から長崎までの宿場が記されています。


■白水橋跡 [地図]

白水橋跡は、本町商店街と東町商店街との境目にあります。江戸時代には穂波川の支流に長さ約45mの橋が架けられていました。現在は橋はなく横断歩道となっていて、橋が架かっていた場所には欄干の一部が残されています。


■本町商店街 [地図]

本町商店街は、旧長崎街道飯塚宿の街道筋がそのままアーケードになった広域型商店街です。



■勢屯り跡 [地図]

勢屯りというのは、参勤交代で宿泊した大名が出発する前に大名行列を整える場所です。行列を整えて宿場の中を通って行ったと言われてます。

明正寺 [地図] の入口付近にありました。明正寺には将軍様に献上するゾウが泊まったという記録が残っています。


■御茶屋跡 [地図]

飯塚公民館の入口付近にあります。「上茶屋」あるいは「本陣」とも呼ばれていました。

1640年に黒田忠之が宿場本陣を設け、参勤交代の大名や長崎奉行の宿泊所としていました。島津公をはじめ、長崎奉行、それから篤姫も泊まったのではないかと言われています。


■飯の山 [地図]

飯塚の地名発祥の伝説がある場所。御茶屋跡と同じく飯塚公民館の敷地内にあります。

明星寺造営の開堂供養の時に飯を炊き過ぎ、余った飯を高く積み上げたので、ここを「飯の塚」と呼び、これが転じて「飯塚」になったといわれています。


■恵比須石跡 [地図]

ここから東にのびる通りは「恵比須通り」です。旧長崎街道が本町筋を通っていた頃、ここに恵比須石がありましたが、その後、曩祖八幡宮の境内に移されました。現在、1月10日に十日恵比須祭がこの地で本町商店街によって盛大に行われています。


■郡屋跡 [地図]

郡屋は代官、下代、大庄屋、庄屋などの会議所で、御茶屋の管理、宿場の治安、大名の送迎等の事務を扱っていました。


■住吉宮跡 [地図]

飯塚川に接するこの付近は以前船頭町とも呼ばれており、住吉宮跡はかつて住吉神社を祀り、水路の安全を祈願されていました。住吉宮はその後、曩祖八幡宮に合祠されました。今は飯塚郵便局となっています。


■中の茶屋 「長崎屋」 [地図]

旧長崎街道の筑前六宿には「長崎屋」「薩摩屋」と呼ぶ二つの町茶屋があり、飯塚宿の中心にあたるこの場所に町茶屋の一つ「長崎屋」がありました。

現在、ここにはからくり時計があります。かつての長崎街道を再現するからくり時計は10時から18時の毎時00分になると動き出します。往来のゾウ、ラクダをはじめ 飯塚宿を通る大名行列を再現しています。


■問屋場跡 [地図]

継ぎ所とも言い、木屋瀬宿または内野宿に向かう行列の人足・馬・貨物の引き継ぎが行われた場所である。馬立場も問屋場に隣接していて、常備馬や、宿駅・助郷制度によって飯塚宿や嘉麻・穂波両郡から 臨時にかりだされた人馬も集っていました。


本町商店街を後にします。


■東構へ口跡 [地図]

東構へ口跡は本町商店街入口前のローソン横に設置されていました。小倉方面から飯塚宿の入口となるのが東構へ口です。


■宝月楼跡 [地図]

曩祖八幡宮鳥居前に帯屋の古川直道の別荘「宝月楼」がありました。飯塚の文化人を集めて、福岡歌壇の大隈言道師を招きここで歌を学んだ場所です。大隈言道は1849年から1858年まで10年間、飯塚の門弟の指導を行い歌学の研究に没頭しました。


■曩祖八幡宮 [地図]

ここもまた飯塚の地名発祥の地と言われています。ここに祭られている神功皇后が長年付き添った兵士たちに別れをつげるとき「何日可逢(いつか、遭うべし)」と告げたのがこの地を「いつか」と呼ぶようになり、そして「いつか」から「いいづか」と変化したといわれています。



■オランダ屋敷跡 [地図]

飯塚では宿場内の施設ではなく東構へ口のはずれにオランダ屋敷が造られており、長崎街道を通ったオランダの医師や商人が宿泊したと言われています。その中には、オランダの医師ケンペルやドイツの医師シーボルトも宿泊し、そのことを紀行文に書いています。


オランダ屋敷跡で勝手にウォーキング大会in長崎街道 飯塚宿は終わりにし、この後は、JR飯塚駅ウォーキングのコースに戻り、ゴールのJR新飯塚駅に向かいました。

    

コメント一覧

  1. モヒカン より:

    本来のウォーキングの魅力とはこういった寄り道にあると再確認しました。
    僕は絵を描くので、絵になる風景を探しながら歩いています。
    寒くなりましたが、
    紅葉シーズン=ウォーキングシーズンです。

  2. ふくすけ より:

    モヒカンさん、こんばんは^^
    >僕は絵を描くので、絵になる風景を探しながら歩いています。
    私は絵心がないので、絵が描けるのはうらやましいですね
    風景を絵で書くほうが写真よりも心に刻まれるような感じがします
    >紅葉シーズン=ウォーキングシーズンです
    紅葉いいですよね~
    私は「全国紅葉最前線」というサイトを見て、
    紅葉の色づきを確認してから出かけたりしていますよ
    コメントありがとうございました。

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